戦国時代ブームが起こってから何年も経っていますが、未だにその時代を生きた武将や生き様に惹かれる人は後を絶ちません。
これまでにも【世界ふしぎ発見!】では「歴史ミステリーを探る日本のお城シリーズ」として今までに2回放送がありました。
今回の放送で3回目になりますが、大きく取り上げられていた徳川家康が築城した大阪城に始まり、他にもいくつか有名な戦国武将に関係するお城にも触れられていましたね。
今回の番組では徳川家康に関係するお城、戦国武将、名湯に焦点が当てられていましたが、私の好奇心を強く刺激するお城も出て来ていたんです。
ずばり、加藤清正築城の熊本城です!
ここ、実は怖い噂があるんですよ。
はい、私、怖い話が苦手なんですけどつい調べてしまうんです。
「意味が分かると怖い話」とかも大好きなんですよね。
この城に関する「怖い噂」はその時代背景も大いに関係しており、日本全体だけでなく海外でも同じような事があったといいます。
熊本城だけでなく、日本全国、海外の話まで含めて順番に紹介していきますね。
熊本城ってどんなお城?
熊本城の歴史
まずはこのお城に関する歴史を紹介します。
熊本城は安土桃山時代から江戸時代にかけて、加藤清正によって建てられました。
西南戦争の戦場になった時に一部を残してほとんどが焼失しましたが、今も残っている部分は国の重要文化財に指定されています。
この大イチョウは加藤清正が植えたと伝わっており、1877年(明治10年)の西南戦争で焼けてしまったものの、新芽が育って今のような見事な姿になりました。
現在の状態は?
2016年4月14日に発生した熊本地震で大きな被害を受け、特に北東にあった重要文化財に指定されている櫓(やぐら)が全壊する被害がありました。
昭和35年に資料を参考に復元された天守閣や、塀、櫓、石垣、瓦などにも破損があったそうです。
特に石垣のうちの3割が崩れる被害が出ました。
今現在「復興のシンボル」とされた天守閣の復旧は完了していますが、その他の部分はまだ修復途中にあります。
完全に工事が終わるのは2037年を予定されています。
それだけ地震で受けた被害が大きかったのですね。
ただ修復するだけでなく、復元部分が無傷で残った部分と比べた時に違いが出ないようにしなければならないので、思ったよりも修復作業は長い時間がかかるみたいです。
加藤清正はどんな事をした人?
安土桃山時代から江戸時代の武将で、幼少期に父親を失った後は血縁関係にある羽柴秀吉に小姓として仕えています。
- 本能寺の変が起こると秀吉に従って山崎の戦いに参加。
- 「賤ヶ岳の七本槍」として約3000石の領地を与えられる。
- 秀吉が関白に就任すると同時に、従五位下・主計頭に就く。
等、主に秀吉の配下としての功績が挙げられます。
1591年の頃に隈本城に改修を加え、今の熊本城と呼ばれる城にしました。
清正は築城や治水工事、新田開発を得意とした他、貿易を活発化させて経済面でもその手腕を発揮し、現代でも熊本では、清正公さん(せいしょうこうさん、せいしょこさん)と呼ばれて親しまれています。
熊本城の怖い噂とは?
加藤清正は1589年に怪力無双の猛将・木山正親(木山弾正)と一騎打ちを行い、窮地に陥ったものの機転を利かせて命拾いをしています。
その後、熊本城築城の人夫の一人が木山正親の息子・横手五郎だと知った清正は、彼が父親の敵討ちの為に来たのでは…と考え、五郎に「誰よりも早く、誰よりも深く井戸を掘ったら褒美をやろう」と言いました。
五郎はその言葉に従い井戸を掘っていましたが、底で作業をしていた時に上から石や砂利を入れられて生き埋めとなります。
この人物がただ単に仕事を探していてたまたま父親の仇である清正の所に来たのか、父親の敵討ちを企んでいたのかは今となっては分かりません。
その後に工事の無事を祈願して修験者を呼び寄せますが、「この地には戦場で討ち取られた父親と、生き埋めになった息子の呪いがかかっている」と言われた清正は、なんとその修験者も切り捨てて【人柱】としてしまいました。
希望者を募って残された家族に莫大な謝礼が与えられる事もありましたが、時には誘拐してきた人間を無理矢理に埋めたそうです。
この【人柱】として選ばれた人は、多くの場合は若い女性が多かったといいます。
あくまでそういう逸話が残っているというだけなのですが、晩年の清正はちょっと疑心暗鬼になっていた節がありますね。
そのせいか、加藤家は清正の息子の代で終わってしまいます。
熊本地震で受けた熊本城の被害が一番大きかったのが、北東つまり【鬼門】と呼ばれている方角だというのもちょっと怖い偶然だなと思います。
南西、坤(ひつじさる)と言われる【裏鬼門】と共に、良くない方向として忌み嫌われています。
日本では他に何処で人柱が立てられた?
実は熊本城の他にも城や橋を作る時には、工事の無事を祈って生贄を捧げられた話が残っている場所があります。
今の時代でも犠牲になった人の名前が付いていたり、鎮魂祭が行われている地域もあるので、この記事を読んでくれている人の中にはその話を知っている人もいるかもしれませんね。
白河小峰城(福島県)の「おとめ桜の伝説」
完成間際の石垣の一角がどうしても崩れてしまうとの事で、人柱が立てられる事になったそうです。
その時に選ばれたのが、「おとめ」という名前の娘です。
彼女は父に母の急病を知らせに来たのですが、「最初に築城現場を通った者を人柱に」と決められていた為に選ばれてしまいました。
おとめは逃げ回ったものの捕らえられ、この娘を悼んで「おとめ桜」と名付けられた桜が植えられました。
丸岡城(福井県)の「片目のお静との約束」
天守台の石垣が何度も崩れてしまい、完成させる為に片目のお静が人柱として選ばれます。
遺される子供の1人を武士として取り立てる約束でしたが、城主である柴田勝家の甥・勝豊が移封(領地を他に移される事)された事で約束は果たされませんでした。
約束を反故にされたお静の涙雨で、堀の水が溢れるようになったそうです。
丸亀城(香川県)の「埋められた豆腐売り」
今でこそ美しい石垣が有名ですが、いつかは不明の昔の時代、改修工事を行っていた際にその石垣造りが難航し、たまたま通りかかった豆腐売りを捕らえて穴に放り込んで無理矢理に人柱にした伝説が残っています。
工事は完成したものの、それ以来、雨が降る夜には豆腐を売る声が響き渡ると言われています。
府内城(大分県)「人々に偲ばれるお宮」
櫓を建てる際に土台になる石垣が何度も崩れ、人柱として選ばれたのが父娘の二人暮らしをしていた「お宮」でした。
どんな条件と引き換えに人柱となったのか、もしくは無理矢理に連れて行かれたのかは今ではもう分かりませんが、たった一人の家族である娘を失った父親の悲しみは一体どれ程の物だったでしょうか。
娘の無念よりも父親の恨みが残っていそうです。
猿供養寺の遊行僧
若い女性が多く人柱に選ばれましたが、中には地すべりの被害が多かった土地の人の為、僧侶が自ら人柱になった話が残っています。
長らく伝説とされていましたが、後に土中から大きな甕が見付かり、中から座禅を組んだ男性の人骨が出てきた事でこの話が事実だった証拠になりました。
吉田郡山城の百万一心碑
人命を尊重して、代わりとなる物が埋められた例もあります。
毛利元就が吉田郡山城を築城していた時に、石垣が度々崩れる為に巡礼の娘を人柱をして立てようとする話がありました。
しかし元就はそれを止めさせ、代わりに「百万一心」の文字を書いた石を埋めて築城を成功させたといいます。
その後の時代では…
人柱の話を調べていくと「お城の石垣が崩れて工事が上手く進まない」という理由で、若い女性が人柱として選ばれたという話が多かったですね。
お城の他にも、大規模な工事が必要な建造物(橋、堤防等)や、工事が難しく危険が大きいとされた時にも人柱はよく立てられたそうです。
後に人間の代わりに人形を使うようになった地域もあるようなのですが、古いお城や大きな橋を見ると実は人柱が立てられた場所なのでは…と考えてしまいます。
海外ではどんな事があった?
3000年前のギリシャ
2016年にギリシャのリュカイオン山で、神への生贄として捧げられたと思われる若い男性の骨が発見されました。
この山は主神ゼウスの聖地として見られており、今までは動物の生贄を捧げる祭礼の痕跡が見つかっています。
4000年以上前の中国
中国の「シマオ遺跡」という場所で、80人以上の若い女性の頭蓋骨が発見されています。
頭蓋骨以外の骨が見付かっていない事から、共同墓地などでなく太古の宗教儀式関係の場所とされたそうです。
550年程前のペルー
140人以上の子供と、200頭以上のリャマの仔が埋められた遺跡が発見されています。
遺体には心臓が取り出されていた痕跡があり、これは人類史上最大規模の生贄の儀式と言われています。
古代のインカ帝国
1999年に非常に保存状態の良い子供のミイラ3体が発見されました。
薬物や酒を大量に与えられた痕跡があり、穏やかな死を迎えたのだろうと推測されました。
新羅時代の韓国
5世紀頃に新羅王国があった遺跡から、2人分の遺骨が発見されました。
骨の状態から、死んでから埋められたのではないかと推測されています。
韓国ではかつて人柱が立てられていた初めての証拠となった遺跡のようです。
まとめ
人間の生贄の代わりに物を埋めた遺跡として有名なのは、秦時代の始皇帝の兵馬俑でしょうか。
日本だけでなく海外でもあちこちで人柱とされた人の遺骨が発見されている事から、昔から世界中で生贄の風習があったという事ですね。
中にはその土地で暮らしていた人とは異なる人種の骨も見付かっている事から、捕虜を生贄として使ったのではないかと考えられている場所もあります。
方法が違うとはいえ、世界各地で同じような事がされていたというのは驚きです。
今と違って科学技術が発達していない時代の物も多いので、それだけ宗教や民族儀式にとって神聖で重要な役割を果たしていたと言えるのではないでしょうか。
家族や国の為とはいえ人柱になった人の心境を考えると、自分が同じ立場になったとして恨まずにいられるだろうかと考えてしまいます。
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