こんにちは、リコリスです。
8/30放送の【開運!なんでも鑑定団】では、戦国時代を生きた武将・毛利元就にまつわる秘宝が登場します!
戦国武将ブームも割と落ち着いてきましたが、まだまだ続きそうな今日この頃。
優れた治世を行った事で地元の人達に人気のあった毛利元就ですが、戦国武将ブームで全国的にも一気にその名前が知られるようになりました。
ゲームのキャラクターとして登場するので、若い世代のファンもかなり多くなったのではないかと思います。
友人に毛利という名前の四国地方出身の人がいて、冗談交じりに「毛利元就との関係ある?」と聞いたら「うん、ご先祖様」と言っていました。
地元の友達に長曾我部君もいるそうです。
まぁ考えが読めない人だったので、本当の所は分からないですけどね。
今回の記事では、毛利元就に関する事をいろいろと調べてみました。
本人だけではなくその息子達や、彼の残したエピソードも書いてあるので是非読んでみて下さい!
毛利元就はどんな武将?
戦国武将の一人で、今で言うと広島の辺りを治めていた毛利氏第12代当主です。
幼い頃に実母を失い、父と兄は酒が原因で死亡、兄の長男である幸松丸が9歳で死亡した為、次男ではありましたが27歳で家督を継ぐ事に。
戦では武力よりも策略を多く用いる事が得意で、彼の代だけで一国の領主から大名になるまで至りました。
家紋の一文字三星紋
妻は4人で、正室との間に産まれた長男・隆元の他にも12人の子供がいました。
1571年に世を去りましたが、この時代に75歳まで生きられたのでかなりの大往生だったのではないでしょうか。
毛利元就の人柄は?
厳しいだけではなく機転を利かせられる切れ者だったようで、こんな逸話が残っています。
元就が12歳だった頃に参拝した厳島神社の辺りで、母親を人柱にされて失った幼い少女と出会いました。
彼自身も幼くして両親を失い、その気持ちがよく分かったのかその少女を引き取ったそうです。
数年後、元就が吉田郡山城に身を寄せた時に本丸の石垣が何度も壊れて困っていました。
周囲が「ここまで上手くいかないのであれば人柱を立てましょう」と進言し、元就に引き取られたかつての少女も「自分が助けられた恩を返すにはそれしかない」と言った所、元就は大激怒。
人柱を立てる事は許さないと強く命令し、人柱の代わりに「百万一心」と刻んだ石を代わりに埋める事で石垣工事を成功させます。
・「百」の字の一画を省けば「一日」
・「万」を書き崩して「一力」
・合わせて縦に読むと「一日一力一心」
となって、「皆で力を合わせれば何でもできる」という言葉を残したものです。
毛利元就はどんなゲームに登場する?
戦国武将が登場するゲームはいくつかありますが、特に有名なのが「戦国BASARA」「戦国無双」「信長の野望」等です。私は「戦国BASARA」から入りました。
戦国時代の事は学校の歴史の授業で習っていたハズなんですが、やっぱり趣味に関するものだと記憶力が違いますね。
登場人物の名前や関係性はすぐに覚える事ができました。
学校の歴史の授業で習っていたハズなんですが(2回目)
ポケモンと「信長の野望」のコラボもあって、各武将がポケモンバトルで陣取り合戦をしてストーリーを進めていくのがとても楽しかったです。
これらに登場する戦国武将達はゲームによって見た目は様々です。
毛利元就に絞ると…
戦国BASARA
この鎧のデザインのせいで彼がオクラの精にしか見えなくなりました。
どうしてくれるんだ。
戦国無双3
「ポケモン+信長の野望」ではこれに近い姿で登場しました。
主に草ポケモンを使うキャラだったんですが、イメージカラーが緑なんですかね?
戦国無双5
「戦国無双3」と全然違うじゃないか。
何があった?
信長の野望
渋い。
毛利元就の息子達とは?
奥方4人の内、正室の妙玖(みょうきゅう)との間に産まれた子の中で、隆元(たかもと)、元春(もとはる)、隆景(たかかげ)が毛利元就の「三本の矢」の逸話に関わっています。
毛利 隆元(もうり たかもと)
毛利元就の長男で、後を継いで13代目当主となりました。
元就よりも先に亡くなっていますが、父親の勢力拡大を支え続けたという話が残っています。
幼い頃に大内義隆の元へ人質として送られたものの、毛利家と大内氏を強く結びつけた人物でもありました。
吉川 元春(きっかわ もとはる)
毛利元就の次男。
父親の元就が亡くなると、兄・隆元の嫡男である毛利輝元の補佐に回りました。
かつては敵対していた豊臣秀吉の要請を受けて天下取りに協力していましたが、その目的が果たされる前に死亡しています。
小早川 隆景(こばやかわ たかかげ)
毛利元就の三男。
12歳で乞われて竹原小早川家の当主になり、天下人となった豊臣秀吉からの信頼が厚かったと言われています。
毛利の水軍を指揮し、兄である吉川元春と共に甥である毛利輝元を補佐しました。
毛利元就の「三本の矢」とは?
「三矢の訓(みつやのおしえ)」や「三子教訓状(さんしきょうくんじょう)」とも呼ばれます。
毛利元就に関するエピソードで、一番有名な話がこれかもしれませんね。
60歳を超えていた元就が、息子達に「兄弟で力を合わせて毛利家を盛り立てるように」と言い聞かせた14条ある書状が「三本の矢」です。
何故「矢」が関係しているのかと言うと、呼び集めた息子達に
「矢は1本では簡単に折れてしまうが、3本を纏めて折ろうとしてもなかなかそうはいかない。だから兄弟で力を合わせて毛利家を盛り立てるように」
という内容の教訓を残した為です。
兄弟仲が良かったから出てきた言葉かもしれません。
この考え方は現代にも団結力の象徴としても残っており、広島ではサッカークラブの名前や中学校その他のあちこちで「三本の矢」をモチーフとした物が見かけられます。
まとめ
- 毛利元就はどんな武将?
- 毛利元就はどんなゲームに登場する?
- 毛利元就の息子達とは?
- 毛利元就の「三本の矢」とは?
今回の記事ではこれらに関して紹介しました。
ゲームに登場する姿は知っていたとしても、彼がずっと昔にどんな行動を起こして領地を発展させてきたかを知らない人も居たのではないでしょうか?
毛利氏で兄弟同士の争いがあった話は、私が調べた限りでは見付かりませんでした。
彼の息子達が一致団結する重要性をしっかり心に留め置いて実践したからこそ、今でも毛利はその名前が広く残っているのかもしれません。
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